「軍師殿、これを受け取ってくださいなv」
と。
やたらるんるん気分を発揮しながら、張コウが私の執務室へとやって来た。
どれ程浮かれているかというと…辺りがピンク色に染まり、花や蝶が舞っているのが目に見えるほどの浮かれようだ。しかもその全てが、どういう仕組みなのか。幻覚ではなく現実であるという事実が痛い。
これは全て、あの諸葛亮の鬼道による悪夢か、と思わせられる…しかし頬をつねれば痛みは存在するし、しかも目の前のピンク色は消えない。…つねった頬の痛みの分、損をした気分だ。
兎に角。私は「受け取れ」という言葉と共に差し出された箱に目を落とした。
豪奢な作りになっている木製の箱。それには綺麗な布が巻かれていて、嫌みにならぬ程度に飾られている。
「……これはなんだ。」
自然と眉間に浮き出る皺。それを誤魔化そうとすることなく、私は問いかけた。
そんな「不機嫌です」とでかでかと書かれている表情を気にもとめず、張コウはにっこりと笑って言った。
「御菓子ですv」
言われた瞬間、手に力が入った。ばきん、と音を立てて筆が真っ二つに折れる。墨が開かれていた書簡のあちこちに飛び散ったが、そんな些末事は気にならないくらいの、何ともいえない感情が込み上げてきていた。
菓子?!菓子だと!!たかが菓子を渡すのに何故このように飾り立てねばならんのだ!!
「馬鹿め!馬鹿め!!」
それこそ馬鹿の一つ覚えのようだ、と思いながらも、口に出てきたのはその言葉だった。
ばん!と大きな音を立てるように、手を卓に叩きつける。まだ手の中に残っていた筆だった残骸が、卓に叩きつけられる。書簡には修正しようのないほどに真っ黒い染みが出来た。
「たかが菓子だろう!何故このように手を掛ける?!」
「たかが菓子、とは酷いですねぇ。軍師殿は巫女姫殿のお話を聞いていらっしゃらなかったのですか?」
巫女姫。
それは数ヶ月前に魏へと降りてきた女だった。
私はその場にはいなかったが、居合わせた諸将の言葉によるとその女は天から降ってきた、と言うのだ。更に、彼女自身の言葉によると、未来からやって来た、とのこと。国の行く末はわからないけれど、すくなくとも大まかなことだけは判る、とも言って。
もちろんそれを聞いて珍しい物好きの主が動かないなんてことはなく、彼女が魏に落ち着いて数ヶ月。
その間に彼女は魏の諸将に様々なことを教えていた。
曰く。
誕生日って言ってね、自分の生まれた日は盛大に祝うんだよ!
曰く。
クリスマスって言うのがあってね。12月の25日!その日は皆が互いにプレゼントを贈りあうんだよ!
曰く。
正月にはね、年上の人が年下の人にお年玉っていってお金をくれるんだよ!
…そのどれもが信用ならないのだが、それでも戦続きの殺伐とした空気から逃げたいのか。誰もがその習慣を取り入れようとしていたのだった。私以外は。
つい先日、皆が主に皆が集められ、何事かと思いきや巫女姫がまた何かを説明し始めたのだ。それが、今張コウが言った「巫女姫殿のお話」。
それは今この戦乱の時代にはないという習慣についての話だった。
「2月14日ってね、バレンタインデーっていうんだよ。」
耳に慣れぬ単語を吐き出して、巫女姫は笑った。
「バレンタインデーっていうのはねぇ、元々は外国から入ってきた祝日でねぇ…」
祝日ってなんなんだ、と問いかけても無駄なことは今までの会話の中で良く分かっている。なにしろ彼女は自分に答えられないことは全て聞こえないフリで通してきているのだ。
そんな彼女を「面白い」と言って置いておく主の心が良く分からない、と思うのは、なにも私一人ではないはずだ。
そもそも。
外国からと彼女は言ったが、それを言ったら彼女自身が私たちにとっては外国人なのだ。
…やはりそう言ったことは言うだけ無駄なのだが。
一人脳裏にそれだけの考えを浮かべ、げんなりとしてしまった私一人を置いて、巫女姫の説明は続く。
「…で、女の人が好きな男の人にチョコレートをあげる日なんだよ。あ、でもチョコじゃなくてもよくって…お菓子と、愛の告白を好きな人に捧げるんだよ!」
判るような判らないような説明をして、彼女はにっこりと笑った。
その後に「でも…」から始まる何かを言っていたかもしれない。けれど、その時点でもう聞く気も失せてさっさと踵を返し、己に課せられた執務を果たすべく、己の執務室へと戻ったのだった。
そしてそれからどれ程時間がたったのか。
張コウがまとっていた外の空気がひんやりとしていたことから、もう夕暮れから夜、といった時間帯なのだろう。少なくとも執務に戻ったのは昼過ぎ。結構な時間をここで過ごしたことになる。
…なんてことを思いながら、迎えた張コウの口から飛び出したのは冒頭にあった通り。それに対して返した言葉も前述したとおりだ。
「昼頃に巫女姫の言ったことを忘れるほども呆けてはおらぬわ!」
「だったらこの御菓子の意味を分かってくださっても良いじゃないですか。」
ひたすら残念そうに口を尖らせて、張コウは言った。だが。
「聞いておらぬのは貴様の方だ!馬鹿め!!巫女姫が言ったのは「女が好きな男に菓子を贈る日」だという事だろうが!」
そう。どう見ても張コウは女ではない。女ほどに美を追究していて、更に自分の美しさを磨くことに余念がないとしても、豊満な胸はないし付いてるものは付いているのだ。
貴様のどこが女だ、と言ってやりたくなる。しかし張コウはめげなかった。
「好きな人に御菓子を贈る…それだけで良いじゃないですか。」
一瞬、目の前が暗くなった。…というか何も考えられない、考えたくなくなった。
好きな人に菓子を贈る…そこだけをしっかりと頭に刻み込んだこの将軍に、一体なんと言葉をかければいいのだ。
その言葉を実行するためには、性別云々は全く除外するつもりらしい。
「巫女姫殿は「好きな人に御菓子と愛の告白を好きな人に捧げる」日だと仰ったではないですか。ですから、私は貴方に御菓子と、そして以前から胸の中で暖めていたこの想いを告げたいと思って…来たんです。」
急に、今までにこやかな笑顔を作っていた表情が硬く、真剣なものに変化した。声も、穏やかさなど欠片も残さず。
「軍師殿…司馬懿殿。私は貴方の事をお慕いしておりました。」
両の手に飾られた木箱を捧げ持ち、そして張コウは私に向かって宣言した。
過去一度たりとも女性に好意の言葉を向けられたことがない、というわけではない。好意を表す言葉をかけられたとしても、今までは冷たくあしらい、それで終わりだった。
しかし、張コウに対してはそういった態度が取れない。…何故か、取りたくないと思ってしまう。
男だから、切って捨てることなど出来ぬ将だから。そういう感情とはまた別の感情が込み上げてきている。
痛いほどに真っ直ぐ、張コウの視線が自分に突き刺さっているのを感じながら。私は張コウへと視線を向けた。
「…私は…、…」
自分でも珍しいと思う。物事を即決する事が出来ないのは。
そして、その理由はそれだけ自分もまた、張コウのことを大切に思っているからなのだという事に気付いた。
そう。そのように気付いた時点で私は張コウに負けているのだ。彼の事を切って捨てることが出来ない。手放せない、と。
「…ふん。」
鼻を鳴らして張コウの手にある箱をもぎ取る。それによってぱぁっと明るくなった張コウの表情を、見て見ぬ振りをしながら。
「これはありがたく貰っておこう。」
「っ、では、」
「菓子に罪はないのでな。」
にや、と意地悪く笑って見せる。当然、そう簡単に気持ちを明け渡すつもりはない。
しばいどの〜…と、めそめそと声を上げる張コウから見えぬように、私は口元に薄い笑みを浮かべた。