「陸遜ー。遠乗り行こうぜー。」

その声が聞こえた途端、陸遜の眉が上へと三センチほど跳ね上がった。
声の主に心当たりはある。というよりも、彼しかこんな事は言い出さないだろう。
今は執務時間内で、普通ならば「遠乗り」などに行ける筈の時間帯ではない。

「…甘興覇。一応聞いておくが、執務は終わったのか?」

いつもよりも随分低い声で、振り返りもせずに背後にいるだろうその人物に問いかける。
案の定、陸遜が背を向けている扉にその男…甘寧、字は興覇…はもたれ掛かって立っていた。
陸遜の問いに、甘寧は豪快に笑って手を振る。

「そんなのやってる訳ないだろ?」

「そうだろうな。ついでに聞いておくが、この書簡に見覚えは?」

「俺が書簡の内容なんて覚えてる訳ねぇだろ。」

胸を張って即答する甘寧に、陸遜はひっそりとため息をついた。眉間に深く皺が刻 み込まれる。それを揉みほぐすように手をあてて、そして見もせずに突っ返された 書簡を乱暴に机に置いた。
せめて、書簡の内容を覚えていろとは言わない。けれどせめて「見覚えがある」く らいは言って欲しかった。
なにしろこれは甘寧が処理すべきだった書簡。しかも期限は昨日だった。

精神的疲労の為に、ぐったりと机に突っ伏した陸遜に追い打ちをかけるかの如く、甘寧が言う。

「そんな書簡整理なんて、いつだって出来るだろ?ほれ、気分転換に遠乗り行こうぜ!」

「気分転換も出来ないくらいに忙しくなってるのは誰の所為だと思ってるんだお前は…」

じっとりと下から睨め付けるように見上げる。
その言葉に、甘寧は心底不思議そうに首を傾げた。

「誰の所為なんだ?」

お前の所為だ、と言おうと思った。
実際、甘寧が急ぎの書簡すら手つかずのままに遊びほうけているものだから、その分の書簡まで陸遜の所へと回ってきてしまうのだ。
だが、ここで「お前の所為だ」と言った所で、甘寧の執務に対する態度が改まるかといえばそうではないだろう。やれば出来る人なのに、面倒くささが先に立ってろ くに動きやしない。
今まで彼に何度も「執務をするように」と言った。
それに対する返事は「お前はちょっとくらいサボれば?」だった。ちなみに甘寧は注意される前も後も変わらず、遊びまわっていた。

「お前がサボった分の仕事は全部、俺に回ってくるんだ。俺が大変そうだと思うなら、自分の仕事くらい自分でしろ。」

そう言った事もある。このときの返事はやけに大人しかったが、だからといってちゃんと仕事をしてくれたわけでもなく。
結局のところ、注意をしようがしまいが、結果は変わらないのだ。
というか、多分殆ど話を聞いていないのではないかと思われる。この時も、翌日執務室からの脱走を成功させていたのだから。

何にしろ、今日は遠乗りになんて行っている暇は全くなかった。
机の上に乗っているのは甘寧のものだった書簡。どれもこれも提出期限が過ぎているものばかりだ。

「甘寧、いい加減にしろ…これはお前の仕事で、今まで俺はどれだけお前の仕事の尻拭いをしたと思ってるんだ…?」

あまりにも「遠乗り遠乗り」と騒ぐ甘寧に、堪忍袋の緒が切れそうになり、唸るように尋ねる。勿論まともな返事が返ってくるとは思っていなかったけれど、そこま でふざけた返事をされるとは毛頭思っていなかった。

「お前のケツならいつも拭ってや…」

言いかけた甘寧の頭に、もの凄い勢いで書簡がぶつかる。
竹で出来たそれは固く重い。普通に足の上に落としただけでも泣きそうになるのに 、それが勢いよく頭にぶつかったことで甘寧は痛みのあまりに無様にもしりもちを 付いた。

「!!!なにすんだ陸そ……」

「甘寧?何か言ったか?」

「……いえ何も……」

振り返って見た陸遜の顔は、さっきまでの呆れ顔とは違い、完全なる無表情だった 。それが返って怖い。
無表情なのは心底怒っている時なのだという事を知っている甘寧は、床に落ちた書簡を拾い上げ、陸遜に投げ返す。
それを受け取った陸遜は、甘寧にすぐに背を向けた。どうやら存在自体を無視することにしたらしい。控えめに名前を呼んだが一切反応は無かった。

「りくそーん。」

沈黙。

「おーい。」

沈黙。

「無視するなよー。」

沈黙。

「……ゴメンナサイ。」

あまりにも綺麗に無視されるのに耐えられなくなった甘寧が棒読みではあったが、 陸遜に謝罪の言葉を紡ぐ。
そんな甘寧にため息をついて、陸遜は筆を置いた。
まだ書簡は沢山残っている。けれど。
立ち上がり身体を伸ばす。ずっと座ったままでいた所為で、関節がぱきぱきと音を立てた。
そんな陸遜を床に座り込んだまま、甘寧はぼんやりと見上げた。彼がどうして筆を 置いたのかがわからない。
多分そんな疑問が顔に出ていたのだろう。小さく笑った陸遜が言った。

「そんな下ネタを吐くくらい暇なんだろう?時間がないから遠乗りは無理だが、… まぁ手合いくらいなら付き合ってやる。」







鍛錬場に剣戟の音が鳴り響く。
本来執務時間である今、鍛錬場にいるのは一般兵ばかりだ。
その中で手合いをする甘寧と陸遜の姿は、かなり目立った。
しかも使っているのは練習用の刃を潰した剣ではなく、真剣。一歩間違えば怪我するどころではない。

「はっ、」

鋭く吐く息と共に、陸遜が剣を繰り出す。
普通の剣よりも短いそれは小回りが利くが、その分一撃一撃が軽い。甘寧は片手で 受け止める。

「どりゃあっ!」

ぶん、と風を切る音が陸遜の耳に届いた。もの凄い勢いで頭上から振り下ろされる 剣は、陸遜が受け止めるには重い。一歩後ろに引いてそれをかわす。
目の前を鋭い剣風が切り裂いていく。その一瞬後、剣を振り下ろしたばかりで無防 備に見えた甘寧に、陸遜が突き入った。しかし。

「でやっ!」

「?!んな…ッ!」

振り下ろされた所から、急に跳ね上げられた剣の柄。それが陸遜の双剣の刃を叩き 、一本をはじき飛ばした。
驚愕に顔が強張る。
次いで薙ぐように翻された剣が、陸遜の喉元に添えられた。

「………。」

しばらくの間、そのままの姿勢で二人は動かなかった。強く相手の目を見つめる。 互いの荒い息だけが、互いの耳に届いた。陸遜の髪を伝って、汗が地面へと吸い込 まれていった。
先に動いたのは甘寧。
剣を引き、地面に座り込む。陸遜もへたりと腰を下ろした。

「…相も変わらず、無茶苦茶な戦り方だな。」

ため息交じりに言う。水賊出身の甘寧の太刀筋は野戦仕様で、型などめちゃくちゃで手合いをするにはやりづらい。
それに慣れれば洗練された剣技などは無駄が無さ過ぎて、型どおりでわかりやすいのだが。

「けどよー。最近お前も変わってきたよなぁ…」

「どういう意味だ…」

「前みたいなぴっちりした太刀筋じゃなくなってきたっつーか…」

うーん、と空を見上げる。
眉間にしわを寄せて考え込む甘寧を横目に、陸遜は立ち上がる。地面に転がってい る剣を拾い上げ、二本とも鞘に納めようとした所で、

「なんか、最近は…そうだなぁ、型どおりじゃなくなったよな、さっき言った通り 。」

ぴたりと陸遜の動きが止まった。

「最近俺以外のヤツと鍛錬してねーだろ?」

意地の悪い顔でにやりと笑う甘寧。

「俺は前のお前とやるより、やりやすくなったぜ?水賊仲間とやってる感じに近く なってきたもんな。」

「…五月蝿い。」

ふい、と顔を背ける。
甘寧の言ったように、執務で忙しかった陸遜はあまり人と手合わせをしていなかった。…それも甘寧の所為なのだが。
今日のように甘寧が駄々を捏ねたときに一緒に手合わせをした以外には、自分一人での鍛錬をしていた程度で。
となると、甘寧の剣に染まってきていたとしても仕方がないのかも知れない。だが 、それを本人から言われるとなんとなく悔しいような気になってしまう。

「それよりも。
お前の気は済んだのか?」

照れの所為もあり、多少ぶっきらぼうな口調で尋ねると、甘寧は「んあ?」と気の抜けた返事をした。

「気が済んだって、何がだ?」

「…遠乗りに行きたいと、騒いでただろうお前…」

呆れと疲れがどっと来て、陸遜は脱力した。
けれど気を取り直して言う。

「そんな風に言えるなら、気は済んだんだな?」

「ん?…まぁな。」

「なら執務に戻るぞ。
………まさか、逃げようなどとは思っていないだろうな?」

「執務に戻る」と言われ、今まさに逃げようと腰を上げていた甘寧は、後半ドスの利いた声で尋ねられ、思わず頷いた。
が、姿勢はしっかりと逃げの体勢だ。

「そうか。ならいいが…もし今日逃げたら、今までお前が溜めに溜めた書簡を全部お前の机の上に積んで置いてやるからな。今後一切手伝いはしないから、そのつも りでいろよ?」

顔は笑顔、しかし言っている声は笑いなど一片も含んではいない。
凍り付いた甘寧の首根っこをひっつかんで、陸遜は執務室へと歩き出した。後ろで 「首絞まる!」「息!息出来ねぇ!!」などの悲鳴が聞こえたような気がするが、 それにもお構いなしで。
ずるずると、自分よりも小さい軍師にまるで荷物のように引きずられていく甘寧( 将軍)を、鍛錬場にいた兵士達は呆然として見送った、という。







ちなみに。
この日、かなり遅い時間まで甘寧の執務室の明かりはついていたという。
その中からは鬼のように怒鳴り立てる声と、泣きそうな声が聞こえてきたとか。

ついでに、翌日からは真面目に執務に取りかかる甘寧の姿が見られた、らしい。